「なんとなく、落ち着かない」「理由はわからないけれど、気が重い」
私たちが日常でふと感じるこうした気持ちは、言葉にしようとすると意外と難しいものです。
その違和感にしっかりとした名前がつけられないまま、私たちは忙しさに流され、いつの間にか内面との距離が開いていってしまいます。
けれどもし、言葉にならないこの感覚に「自分なりの名前」をつけることができたら——その瞬間、曖昧だった心の輪郭が少しはっきりしてくるかもしれません。
「感じること」から始まる思考──ドリフトシンキングとは
ドリフトシンキングは、自分自身の内面に注意を向けるための新しい思考法です。
特徴的なのは、すぐに結論や解決を求めず、まずは「漂う」ように内面を眺めることから始める点にあります。
たとえば、最近胸がざわついた出来事をひとつ思い出してみてください。
そのとき、心に何が起きたのか。どんな感情がわいたのか。身体にどんな反応があったのか。
そしてその感覚は、何かにたとえるとしたら、どんな色や音、質感だったのか——。
これらの問いに正解はありません。大切なのは、自分の感じたことをそのまま拾い上げ、それに言葉やイメージで「名づけ」ていくことです。
「名づけ」は内面にかたちを与える作業
ドリフトシンキングの第一段階では、感情、感覚、思考といった内的な動きを、自分なりの表現で記録していきます。
このときの「名づけ」は、必ずしも一般的な言葉である必要はありません。たとえば「灰色のシャボン玉」「胸の奥でぱちぱちとはぜる音」「ねじれたらせん」——こうした比喩やイメージも、立派な名づけのひとつです。
このプロセスを通じて、これまで曖昧だった内面が、少しずつ「かたち」を帯びてきます。
それはまるで、霧の中にあった景色が徐々に見えてくるような感覚です。
名づけは自己理解を越えて、「発見」につながる
「名づける」ことの効果は、単なる自己理解にとどまりません。
自分の中にある複雑で捉えにくい感覚に名前を与えることで、それが過去のある記憶とつながったり、思いがけず別の人の感情と似ていることに気づいたりすることがあります。
あるいは、まったく異質だと思っていたふたつの感情が、意外にも同じ比喩で表せることもあるかもしれません。
このような「類似性の発見」は、自分の内面に対する認識を立体的にし、「ああ、こういう感じ方もあるのか」という気づきを促します。
一方、「そんな言い方が自分の中から出てくるなんて」という驚きもあるでしょう。
それは、自分の中に予想していなかった語彙や視点が眠っていたことへの発見であり、「意外性」としての表現の可能性です。
こうした類似性と意外性の発見は、自己理解をより動的で、創造的な営みにしてくれます。まさに、自分という存在が思っているよりも多様で広がりのあるものだということに気づかせてくれるのです。
言葉の技術としての「名づけ」
私たちがこのようにして内面を名づけるとき、無意識のうちに「たとえる」「置き換える」といった言葉の技術を使っています。
これはまさに、古くからレトリック(修辞)が扱ってきたテーマです。
比喩、換喩、提喩──これらは複雑で曖昧なものを、より具体的で共有しやすい形に整えるために使われてきた表現技法です。
ドリフトシンキングにおける「名づけ」もまた、このレトリックの技術と根本で通じ合っているのではないか。そんな視点から、次回以降では「言葉の技術」そのものを掘り下げていきます。
「名づけること」は、感情を整えるだけでなく、自分をより深く知り、他者との対話の糸口を見つけるための行為でもあります。
曖昧な内面に、自分の言葉でかたちを与える——そのとき、思いもよらなかった発見があなたを待っているかもしれません。