内面に宿る“漂い”を言葉にする意味

私たちは日々、多くの出来事に出会い、何かを感じ、考えながら生きています。そんな日常を綴る方法のひとつに「エッセイ」がありますが、ここで紹介したいのは従来のエッセイとは少し異なる、「Drift Essay(ドリフト・エッセイ)」というスタイルです。

Drift Essayは、DriftThinking™の思想に基づいて生まれた、新しい自己表現の方法です。特徴的なのは、「外の出来事を書く」のではなく、「内側の動きを丁寧に観察して書く」ことに重きを置いている点です。

たとえば、朝の通勤中にふと見かけた街路樹の花。その一瞬に、自分の心がどのように反応したか。嬉しさ、切なさ、懐かしさ、あるいは何とも言えないざわつき。その小さな内面の変化こそが、Drift Essayの主役になります。

従来のエッセイでは、「何が起きたか」や「それについてどう考えたか」という構成が一般的です。これは「外から内へ」という流れ。しかしDrift Essayでは、その流れを逆転させ、「内から外へ」の視点を重視します。つまり、自分の内側で何が起きたのか、そこに注目するのです。

このとき大切なのは、分析や正しさではありません。自分がその瞬間に「どう感じたか」「何を思ったか」を、ただそのまま丁寧に言葉にすること。感情や感覚を否定せず、判断せず、ゆっくりと見つめて記述する。それがDrift Essayの基本姿勢です。

では、どのように書けばよいのでしょうか。いくつかのルールをご紹介します。

・外側のできごとを説明しすぎない。むしろ、そのとき自分の心に起きた「ざわつき」「高揚」「沈黙」など、内側の変化を中心に書く。
・小さな感情にも注目する。「ちょっと嫌だな」とか「なんだかほっとした」など、取るに足らないような反応にも丁寧に耳を傾ける。
・感情や感覚に名前をつける。「モヤモヤ」「ぴりっとした緊張感」「やさしい満足」など、できるだけ具体的な言葉で表現してみる。
・それがどんな価値観や思考パターンとつながっていそうか、慣れてきたら少しずつ探ってみる。

こうした姿勢で書くことで、私たちは自分の内面に対する新しい理解を得ることができます。日々の小さな出来事が、自分の思考のクセや価値観を映し出す鏡であることに気づくのです。

なぜ「Drift Essay」を今、提唱するのか?

これまでも、感情や内面に焦点を当てた作品や作家は存在してきました。梶井基次郎や宮沢賢治、アニー・ディラードのように、繊細な感覚を文章に落とし込んだ先人たちは、まさにDrift Essay的な精神を持っていたと言えるでしょう。

しかし、現代の私たちは情報過多とスピードに満ちた社会の中で、「内側に静かに漂う時間」を極端に失いつつあります。感情や感覚は見過ごされ、反応的な言葉や結論ばかりが求められる風潮のなかで、私たちは自分の本音さえも見失いやすくなっているのです。

だからこそ、「Drift Essay」が必要です。これは、新しい表現技法であると同時に、「今、自分の内側にあるものを静かに見つめる」という文化的実践の再提案でもあります。ありふれた日常の中に自分の核となる価値を見出す——その小さな内省こそが、変化の第一歩となるのです。

Drift Essayは、「表現すること」が目的ではなく、「理解すること」が目的です。だから、読み手に伝えることよりも、自分のために書くことが大切です。それが結果的に、他者にとっても共感や気づきをもたらすことがある。そんな不思議な文章スタイルなのです。

この記事が気に入ったら
いいね ! しよう